普段、私たちが美術作品をみるときにはどんなことを意識しているのでしょうか?作者の名前、つくられた時代、素材は何か…。美術館には、こうした作品情報が提示してあります。確かに客観的な情報も大切です。しかし、芸術作品とはこれら「作品にまつわる情報」だけで受容しきれるものなのでしょうか?
作品は、画家が筆を置いたときに完成します。しかし、作品の価値や意味はその時点から生成され、付加されていくものなのです。完成直後に「傑作」と言われた作品でも、時代を経て忘れさられたものもあり、逆に、非難と嘲笑を浴びながらも、その後「名作」となる作品もあります。なぜ評価は変わるのか?それは、時代が、価値が、そしてなによりも、みる人が変化したからです。みる人、つまり、鑑賞者こそが作品の価値=アート創造の重要な役割を担っているということです。だからこそ、作品と向き合い、様々な価値をそこに付加していける主体的な鑑賞者の存在が大切なのです。
作品そのものが「アート」なのではなく、作品と私たち鑑賞者との間に立ち上がる不思議な現象、深淵で、すばらしいコミュニケーションが「アート」だと私たちは考えています。
アートは作品と鑑賞者の間に立ち上がるコミュニケーション、つまり「キャッチボール」のようなものです。複数の鑑賞者で行なう対話型の鑑賞では、ともすればどこからボールが飛んでくるのかわからないバレーボールのようになります。
ACOPでは、「ファシリテーター」と呼ばれる人が会話の「交通整理役」を担います。ファシリテーターは、作品と鑑賞者・鑑賞者同士の会話の流れを整理しながら、ときにはトスをあげたり、球拾いをしたりしながら、会話をもり立てていきます。
コミュニケーションをより活発に、そして深いものにするためにファシリテーターは、話し合いのなかで「受け答え/コメント」「言い換え/パラフレイズ」「結びつけ/コネクト」「情報提供/インフォメーション」「まとめ/サマライズ」を行います。
鑑賞者のみる力が高まり、学び合いが活発になると、鑑賞者自身がファシリテーターの役目を自ら行うようになり、本来のファシリテーターの役割はだんだんと小さなものになっていきます。こうして鑑賞者は、1人で鑑賞を行なう際にも複数でみた場合に起こるコミュニケーションを自ら追体験し、主体的な鑑賞者となるのです。これを私たちは「1人ACOP」と呼んでいます。
1人で作品をみていると、2つの目と1つの頭で鑑賞することになります。しかし、10人で作品をみていると、20の目と10の頭脳が動員されることになります。複数の視点が交錯することで、自分が感じた以上の発見や驚きを得ることも可能になります。そこで重要となるのが、鑑賞者間のコミュニケーションです。思ったこと、感じたこと、どうしてそう考えたのかなど、自分の中にわき上がってきたものを、一緒にみている人にきちんと伝えること。同時に、他の鑑賞者の言葉にしっかりと耳を傾けること。こうしたプロセスを経て、他者の発見を共有し、自らの考えを発展させていくのです。「アートは難しい」と敬遠している多くの人々にとって、アートを身近に体験しうる鑑賞方法として、近畿をメインとする全国の美術館で、ACOPを行っています。
文部科学省は「言語活動の充実」や「コミュニケーション能力」の育成を重視する姿勢を打ち出しています。人の存在は、他者や自己の「鏡」となる作品に映されることで初めて実体を持ちます。作品を介して他者とコミュニケーションすることは、人が人との間で(つまり人間として)生きて行くために重要な、他者の存在、違いや多様性を認めていくきっかけとなるのです。「みる・考える・話す・聴く」という、私たちがすでに持っている基礎的な能力を用いて行うACOPでは、鑑賞力だけではなく、観察力・批判的思考力・言語能力・コミュニケーション能力といった総合的な「生きる力」を目指しています。つまり、ACOPは「コミュニケーションによる鑑賞教育」であると同時に、「鑑賞によるコミュニケーション教育」でもあるのです。学校教育における取り組みとして、小・中・高校への出張授業のほか、教員免許状更新講習を開講しています。
本センターでは2012年度から、ACOPを企業内人材育成や、組織開発の手法として応用する取り組みを開始しました。ビジネスパーソン向け公開講座の開催や、個別企業への人材育成・組織開発プログラム提供など、一見アートとは異次元に感じられる、ビジネス領域への展開を進めています。これは「対話型鑑賞」を美術教育の方法論としてのみ捉えるのではなく、あらゆる人材育成の基礎となるコミュニケーション能力を涵養する方法論として、いわば「鑑賞型対話」として応用していく可能性を、いっそう拡大するための取り組みです。
ACOPは、アートの可能性を広げるため、より開かれた美術館のあり方や鑑賞者のニーズに合わせた美術館のあり方を探る1つの方法論として開発されてきました。この研究課題を多角的に探るべく、全国の美術館調査や文理問わず他大学との共同研究、様々な教育機関や行政、NPOなど生涯教育の分野でも、講演やワークショップを積極的に行なっています。
コミュニケーションの重要性が、社会の様々な場面で訴えられています。家庭や学校といった密接な関係を築く場でさえ「どうしてもっと話し合えなかったのか」と思われるような事件が相次いでいます。このような現状を踏まえ、人が人との間で生きていくために最も重要な要素であるコミュニケーションのあり方・育て方について、美術教育の現場から問い直してみようというのが本センターの設立趣旨です。
現在、教育現場では生きる力を高めようとする動きが進んでいます。本センターは美術の分野から、コミュニケーションの問題と「生きる力」の向上にアプローチしていきます。美術は感受性を養うだけでなく、社会の中で主体的に生きる人間を育てる教育コンテンツとしても有効であると考えています。自立した鑑賞者の育成や私たちの考えるアートの普及促進を通じ、アートの可能性を広げ、ひいては自らの力でみて、考えて、話し、聴くことの出来る主体的な人材の育成に寄与したいと考えています。
京都芸術大学では、2004年度からアートプロデュース(ASP)学科の一講義としてスタートしたACOPを展開して来ました。毎年恒例の「鑑賞会」や数々のシンポジウムの開催を通じてACOPの活動は年々多くの人の知るところとなり、様々な方面より、励ましや期待の声を頂くようになりました。そんな中、ACOPを広義のアート・コミュニケーションの一つのあり方であると考え、アートの可能性を多角的に探る研究活動を担う機関として、アート・コミュニケーション研究センターは2009年4月に設立されました。
専門領域は人間科学・臨床心理学。心理臨床現場での実践を行いながら、人の持つ「自分」という感覚とコミュニケーションの関係を研究。2007年度より2年間、ACOPに参与観察者として参加。コミュニケーションという視点から、ACOPを通じて生じる人の変化について分析を行う。2009年京都芸術大学着任後は、学生への講義の傍ら、近年は美術館・博物館、教育関係者のみならず、企業においてACOPを礎としたセミナーを開催し、人材育成や組織改善に役立つとの高い評価を受けている。現在はACOPのファシリテーション・スキルを医療分野に応用しようという試みから看護教育などの医療従事者にまでそのフィールドを拡げ活躍中。
専門領域はアートプロジェクト・マネジメント。京都芸術大学(旧京都造形芸術大学(現京都芸術大学))芸術表現・アートプロデュース学科卒業後、フリーのアートコーディネーターとして活動を開始し、全国で開催されるアートプロジェクトにて作品制作・企画・広報など事務局業務に従事する。大阪府立江之子島文化芸術創造センター[enoco]企画部門に所属(2012〜2021年)。2022年より現職。近年は、対話型鑑賞プログラムを活用した出張型鑑賞授業や鑑賞ツアーなど、アート作品と鑑賞者をつなぐプログラムの企画・コーディネートを多数手がけている。
50音順 / 敬称略